思えば私が食の根本的な見直しを始めてから今年(2024)で7年が経ちました。(あっという間だったなぁ…)
はじめの2年はバリバリのヴィーガン。色々あって現在はヴィーガンではありませんが、ゆる〜い菜食をベースに、今も自分の身体に何が最善なのかを研究中の身です。
『菜食』というと驚かれることが多いですが、私的には人生の『流れ』に乗っていたら自然とたどり着いた場所でした。結果、菜食という未知の世界に足を踏み入れたことで私の人生は大きく変化したので、『流れ』ってすごいな〜と思います。
それに、菜食を続ける上でモチベーションになっているのは単純ですが『菜食での心身の変化を実際に感じられたから』。菜食って体型維持が楽だし、風邪の治りも早くなったし、嬉しいことづくめです。自分の体の声を聞きながら、今後もゆる〜く続けていこうと思っています。
…とまぁ、私は食で心身が大きく変化したのですが、実はもう一つ大変化を加速させたものがありました。
それがスピリチュアルの学びです。
直接的に何かが視えるなどの霊感はありませんが、小さい頃から多くの人とは異なる感覚を持ち合わせていた私。なのでスピリチュアルと出会ったタイミングが来た時も『あ、これだ』のような、スピリチュアルに対して深いところで『懐かしさ』を感じていたのを覚えています。
スピリチュアルと聞くと毛嫌いされる方もいるかも知れませんが、本来スピリチュアルとは人生を通して体験することからの『学び』や『気付き』のこと。『生きること自体がスピリチュアル』が私のスピリチュアルへの捉え方です。だから別に、超能力が使えるだの視えるだのがスピリチュアルではないと、個人的には思っています。
スピリチュアルとは内側への探求です。探求とは、自分の内側(心の中)を見つめ、本当は自分は何をしたいのか?何を望むのか?と本音を捉えて、本音に従って生きる(自分を生きる)こと。自分自身を枠から解き放ち、自由になる。それが可能になるのがスピリチュアルの学びだと思います。
菜食を始めた時もそうでした。菜食は危ないとよく言われていますが、私は世間の声ではなく『自分の体で試すこと』を選びました。直感がゴーサインを出していたからというのもありますが、合うか合わないかはやってみなければわからないからです。(もちろん菜食を始める前はかなり本を読み込んでからトライしたけど)その声に従ったおかげで私は『大変容』という強烈な体験をしたから。この内なる声の感覚は、目に見えないけれど確かにある感覚でした。
『この命を本音のために使いたい。誰かのためにじゃなく、自分のために』これは幼少から共感能力が高すぎた私の深くに潜っていた本音です。ずっと自分のために生きる=ワガママと勘違いしていたんですよね。自分のために生きていいんだ!という衝撃と共に腑に落ちる感覚。スピリチュアルと出会ったおかげで、ようやく目覚めることができました。
ここでちょっと余談を…。どうしても言わせてほしい!笑
これは私個人の超主観なのですが、私の推しでもあるミュージシャンの米津さん。彼はもうすでにスピリチュアルを体現して生きている方だな…と感じていました。もちろん私には彼の人生で何が起こったのか何一つわかりませんが、感覚として自身の人生で体験した様々なネガティブ・ポジティブの全てをしっっかり咀嚼し赦しきっているような印象があって、彼を見ていると全てを包み込むような、赦されているような感覚がします。どれほど自分を見つめ続けてきたのか。その途方もない道に、その深さたるやに、ただただ圧倒されてしまいました。だって、あのライブMCやテレビでの発言の数々。師匠感がすごいです。
やっと自分を生きる入り口に立った私にとって、すでに自分らしく生きていらっしゃる米津さんは素敵だな、すごいなと思います。米津さんを拝見するたびに、自分も自分の人生をしっかり歩いていこう!と身が引き締まる想いになります。『生き様で魅せる』ってかっこいいなぁ!
…さてさて話は戻りまして、次の一節はスピリチュアルを学んでいく中で理解が深まったものなので、少しシェアさせていただきたいと思います。
いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない。
アルバート・アインシュタインの名言から引用
この『同じ次元』という部分がわからなかったのですが、私的に少し腑に落ちたんです!
それは、問題というのは高い位置(視点)から全体を見渡さないと解決策に気付けないということ。『木をみて森を見ず』ということわざの感覚に少し似ている気がするので、このことわざを例にたとえてみようと思います。(う、うまく伝わるかな?ドキドキ…)
広大に広がる森があったとします。その森では、あるところで森林火災が発生していました。その火災が発生した周辺には、たくさんの動物や人が住まう集落もあります。その火災で周辺の生き物たちは驚き、逃げ惑いました。どっちに逃げたら良いのかわからず、とりあえずおのおのが思う方向へ、散り散りに逃げています。運よく火を免れた者もいれば、残念な結果になったものもいます。これは当たり前と言ったら当たり前ですが、『同じ目線で見ているから、全体像がわからなかった』ということでもあります。だって地上・動物・人という同じ目線(同じ平面上、とも言える)にいれば、正確な森の現状を把握することは困難です。
ならば『空を飛ぶ鳥』ならどうでしょう?(災害用ヘリコプターとかもわかりやすいかも)
地上の生き物たちとは違い、森全体を見渡せる高い場所から森全体を見ることができれば、新たに火が発生しているところはあるか?火の規模は今どれくらいなのか?鎮火にどれくらい時間がかかりそうか?など、いろんな情報を得ることができます。安全なルートもわかるので、逃げる動物や人間を救護したり、安全な場所までの最短ルートを伝えることだってできるかもしれません。このように『高い場所から全体を見渡せる』ということは、さまざまな解決策も自然と見えてくる、ということなのです。
視点は『次元』です。よく次元が高い・低いと言いますが、低ければ近くしか見えないですが、高ければ見渡せます。ただ単にその特性の違いがあるというだけで高低に優劣はないんですが、やはり見晴らしが良い方がいろんなものが見えますよね。
冒頭で話した通り、食改革を通して心身の変化はしっかり感じてはいましたが、正直『これは物理的な対処に過ぎない』ような、『まだ最後のピースが足りない』ような感覚がずっとありました。(もちろん物理的な対処は有効かつ必要なことなのですが…)
私はこの最後のピースが『スピリチュアル』だったと確信しています。
なぜならスピリチュアルを実生活の中で実践していく中で、全体を見渡す視点へと徐々に移行しているという体感があるからです。身に起こる物事を高い場所から見る=物事を俯瞰してニュートラルに捉えるということでもあり、本当は良い悪いなどないのだということが腑に落ちていきました。
(同じような意味合いのことわざに『人間万事塞翁が馬』というのがあります。これもまさしくニュートラルな視点だなぁと感じるので、アインシュタインといい、ことわざを作った人たちといい、先人たちの知恵はすごいです!)
このニュートラルな視点を私の例に例えると、食や生き方を大きく見直すきっかけになったのは『大きな体調不良に見舞われたこと』です。その時は相当落ち込みましたが、あれがあったおかげで今の自分があります。
そうなんです。
一見すると最悪の出来事のように見えるけど、実はそれは自由へのギフト、すなわち高い視点へのシフトのきっかけでもあったのです。
『高い位置から見る』とは、別の言い方をすれば高い視点(次元)まで自分の意識を上げなければ見えないということでもあります。
この高い視点へ移行するために自分を見つめ続けることと、自身の内にある光と闇を一つずつで良いので『受け入れる』ことが大切です。私も正直最初はこの『見つめる』というのが面倒で面倒で、逃げたこともありました。
でも、逃げ道なんてなかった。どんなに逃げようとしても、気付くと戻ってきていました。奥深くでは、これが私にとっての真実の道だとわかっていたからだと思います。そして今がある。自分の本音に気付き、人生が輝き始めました。『できない、やれない』から、『やりたい、できる』へと、意識の移行も自然と。
ついでに次々に溢れてくる感情が、まぁーすごかった。(今もフツーに出てきますが)私の場合『誰かのために生きるのが美徳で、自分のために生きるのはわがままなことだ』という強烈な自己犠牲、自分は少数派なんだという事に対する疎外感、劣等感。あとは罪悪感、無価値観、ジャッジ、絶望感、不足感なんかも!それはもう、ラッシュアワーばりに。
でも私は本当に自由になりたかった。もう自分に嘘をついて生きるのが心底嫌でした。このまま終われない。だって絶対に後悔するとわかっていたから。だから続けた。内側を赦し続け、光も闇も受容していく作業を。これを続けていったら、本当に軽くなるんですよ。だって、ブログも絵も、自分の考えや感性を思いっきり表現する行為です。今までの私だったら到底考えられない行動だったから。
私たちは多かれ少なかれ、ネガティブな自分の一面を否定することがクセになっています。でもそのネガティブは、実は光でもあるんですよね。光と闇はセット、コインの裏表だから。その光と闇の絶妙なバランスで『私』というものが形を成しているわけだから『全てOK』なんです。ネガティブのおかげで分かったこともたくさんありました。学んだこともいっぱいありました。『ネガティブも愛されたかったんだな』と感じます。赦されて、安心して。結局これも自身への愛ですよね。
私の尊敬するスピリチュアルの先生の言葉の中に『目に見える現実という”外側”は、実は”内側の反映でしかない”』というのがあります。自分を認めるから、認められる。自分を愛するから、愛される。『真実はこの順番なんだよ』って言葉。…刺さりました。一気に視界がクリアになり、同時にものすごくホッとした。だって、もう外側に求めなくて良いとわかったから。全ては内側(自分自身)なんだ、ということに。
こんな風に自分の内側と向き合えるようになったのも、全部スピリチュアルの学びのおかげ。でも、この出会いもきっと必然なんだろうな…。だって人生は、偶然を装った必然ばかりだったから。今までの全ての体験があって、やっと今ここにいる。自分の中のネガティブにも『ありがとう』と言えるように変化できたことは、とても幸せなことだなぁと思います。
『こんなにやれたんだ私。やればできるじゃん!ふふふ。』と、自分への信頼を取り戻し続ける感覚。新しい可能性の自分に出会えた時の高揚感。何度でも出会って、自分を好きになっていく感覚は、なんだか自分自身に恋し続けているみたい、とふと思ったり。
スピリチュアルは『自分へと戻る旅』だ。
自分の中の見たくなかったものを見つめなくちゃならないから、しんどい時もあるけど、やめられない。だってこの道が私にとって真実だから。
やっとここまでこれた。やっときびすを返せた。
まだ道は続くけど、これは還る喜びの道。
改めてそんなことを思った、秋の夜長でした。
p.s 私のスピリチュアルの学びの原点になった方、それは並木さんという方です。(スピリチュアル界隈の方はご存知の方も多いと思います)現在もたくさん書籍を出版されていますが、どの本もわかりやすいので惹かれたものを読むのが良いかと思います。並木さんにピンときたら検索されてみてくださいね^^
下記の本は並木さんと私の衝撃のファーストコンタクトになった、思い出の一冊です。私は当時ぐっすり眠っていたので、それはもう盛大に叩き起こされましたが 笑
ずっと米津さんに感じていた感覚を表現してみました。この感覚わかるーって方居たら、ほんと名乗ってほしい…(嬉震)