日々自炊をしていると、作り終わった後に気付く事がある。
それは「頭と心の中がなぜかスッキリしてる」ということだ。
例えるならそれは、散乱していた書物を元の場所に戻し整えた後の爽快感や、アーシング(裸足で土の上を歩く)をした後のよう。
「さて、今日は何を作ろうかな。」そう思った瞬間、不思議と作る事以外のことが考えられなくなる。「今日はこんなことがあったな」「明日はこれをしようかな」のような、過去や未来に思考が飛ぶということが無くなり、頭の中がしんとする。目の前の作業だけしか考えられなくなっている。
その時私は『今この瞬間だけ』に存在しているのだ。
この時、自分という自我も消えているような感覚がする。この瞬間に癒しが起こるのだ。(うまく説明できないが、こんな感覚)
私は元来思考が強いタイプですぐあっちこっちに思考が飛ぶクセがあるので、強制的に思考をシャットダウンできる『自炊』の功績はかなり大きい。『思考が減る』ということは『脳のスペースが空き、ゆとりが生まれる』ことであり、それは『自分と向き合うこと』へと繋がる。
ホッと一息ついた時の、あのゆるむ感覚。
そのゆるみは、自分が”ほんとうに”にしたいことは何なのか?ほんとうはどんな人と交流し、どんな環境で生活したいのか?それを叶えるために、今から何が出来るのだろうか?そいういうことをつぶさに見つめるのに大いに役立つ。よくいう『内観』というやつだ。
内観は侮れない。「自分のことなんて知ってる。見つめるまでもない」と思うかもしれないが、存外出来ていないものだ。『本当の』のぞみというものは尚更に。この内観時間のお陰で、自分の人生に積極的に真剣に向き合えるようになれた。『幸せは与えられるもの』ではなく『自分で与えるもの、自分で意味付けするもの』と気付けた。『誰か』ではなく、全て『自分次第』だったんだ、とわかった。
それは”自分を生きる”という感覚。
内観するまでは”生きている”という感覚が薄かった私。自分が何者なのか、何をしたいのか全くわからなかったのだ。そんな私が今やっと『生きてる』と思えているのは、間違いなく『ゆるみ時間』のお陰だと感じている。
自炊は自分や家族、友人などの大切な人のために日常的に行う行為だ。毎日のことだから習慣化しやすいのも良いなと思う。それに自炊するようになって痛感しているのは、食べ物は肉体・精神両方に直結しているということだ。
自炊は飲食店や有名店で食べるような、嗜好を凝らした複雑なものでなくていい。私が日々作るものだって、基本素朴でシンプルなものばかりだ。でも毎日食べるものは体感的にシンプルなものの方が心地良い。
自分のこだわりの調味料や食材で作って食べる満足感はものすごいからだ。心も体も充足感で満ち満ちる。
余分なものがどんどんなくなって、どんどんクリアに身軽になる。そしてシンプルになると、体も心もどんどん元気になってくる。
純化していくような感覚だ。
…と自炊推しの私だが、もちろん毎日毎日違うラインナップを作るわけではない。まとめて作り置きしたり(これがほとんど)、時には毎日違うものを作りたい衝動がおきたり、またある時には絵の制作や文章を書くことが楽しすぎて、それ以外全て面倒になって手抜きしたり。そんな感じ。そんな感じでいいと思う。人生は長いのだから。
でも同時に人生は短い、とも感じている。
なぜなら、やりたいことを全部するには人生は短いから。人はせいぜい生きても100年程度。それより短いこともざらで。今生きている私たちにとっては長く長く感じるけれど、ほんとうは瞬きにも満たないような刹那の一時なのかもしれない。刹那でカラフルな、濃密な人間時間。それがめんどくさいなとも思うし、同時に愛しくもあるけれど。
この長く短い生はいつまで続くのかはわからないけれど、きっとまだまだ続くだろう。
自分で自分を豊かにできるツール、その一つが『自炊』だと私は思う。自炊で日々自分もお腹も満せるなんて、なんて素敵なんだろうか。一石二鳥感。むふふ。
ああ、今日も自分を満たすための時間を過ごせることが有難い。お腹減ったなー。
どれ、作るとしますか。
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