今日は私のリアルなコンプレックスについて話そうと思う。
ぺちゃっとした平たい顔、繊細な感覚・感性。これは長年の私のコンプレックスだった。
学校や社会という集団の中で生きていくうちに、次第に”劣っているもの”として捉えるようになっていた。
衝撃的だったのは学生の頃に「〇〇君が、かおりちゃんのことブスだって言ってたよ」なんてダイレクトに聞かされたこと。センシティブなお年頃だったから超超超ショック!思うのは勝手だけど、心にしまっておいてよ〜と思ったな…。
まぁそんな感じで、どんどん自分に自信がなくなっていった私。
「私ってこのままではダメなんだ!」「自分は欠けた存在なんだ」と言う”不完全さ”を常に感じて生きていた。だから食事で健康が劇的改善したのに自分を褒めもせず、更にお尻を叩いていた。
友人からも『何でそんなに自分に自信がないの?素敵だよ!』なんて言われた事もあったけど、その言葉をどこかいつも素直に喜べていない自分がいた。
何かを成しても、褒められても、全然満たされない。そこでようやく気づいた。『まだまだ』は”向上心”と思っていたけど、実は”欠乏感”だったのだ。自分で自分を認められていなかったからだ。
過去一の体調不良など、いろんなイベントが重なったおかげで(プロフィール参照)、自分というものに真摯に向き合わざるを得なくなった。そんな時に役立ったのが『自分のポジティブもネガティブも紙に書く』という行為。文字に起こすというのは、膨大な思考を捉えるのにすごく良かった。
自分と向き合っていくと、いろんなことが見えだした。
人にどう思われるのか怖くて自分を表現するのが苦手だったこの私が、本当は自己表現したかったということ。深く潜っていくと、思いを伝えたいという願望が奥底に眠っていた。そのことに気付いてブログを始めた。ブログ用語も専門知識も全くわからないのに、それでも続けている自分に、我ながら不思議で不思議で。なんせ私は『コツコツ継続』が大の苦手だったから、これはすごい事だと。
それに、お金以外の”豊かさ”にも気付けるようになっていた。
例えば、太陽のポカポカの温もり。風が頬を撫でる感覚。目を瞑ると、風のゴーゴーという音だけが世界に響いて、まるで風にでもなったかのような感覚になる。この体感が愛しい。そんなこと…と言われるかも知れないけど、実はこれは豊かさだったんだ。
昔のトラウマが意外と根深くて、自分では良いなと全く思えなかった容姿も、思えばいつからか『素朴で良いじゃん!』と言われることが増えていた事に気付いた。『江戸時代の町娘みたいな顔だ』って。笑
そんなふうに言われて、なんだかおかしくて、力が抜けた。『ええいっ、後は野となれ山となれ!』とブログの顔出しも踏み切ることが出来た。
繊細な感覚は相変わらずだけど、このおかげで出会えた人や、不思議な巡り合わせをいっぱい経験できていたな、とかね。
さっきもちょっと書いたけど、『ブログを通して自分を表現する』ことは、私にとって大きなチャレンジだった。自分の想いや体験を正直に綴ることで、非難や批判を受けるかもしれない。打たれ弱い自分がいるから。でもどうしても、ちょっと前の私と同じような人に『もう自由になって良いんだよ。』と伝えたかったんだよね。
この強い想いは、元を辿ればコンプレックスが起因になっている。ということは、新しいチャレンジが出来たのは『コンプレックスのおかげ』とも言える…。
『コンプレックス』によって、実はたくさんの喜びや豊かさや経験を自分は『得ていた』んだとハッッッ!とした。
私の中に『もっと』という気持ちは相変わらずある。でも少し前の『欠乏感ゆえの、今を否定した状態でのもっと』ではない。
今のもっとは、欠けてるとか、ここはまだ受け入れられないな…と思う事さえ含めた全ての感情、すなわち“全ての自分”をまるっと受け入れた状態での『もっと』だ。
この『もっと』は、なんだかとても心地が良い。
『ありのままを認める』という『自己愛』が、まず私には必要だったんだ。
私は心の中ではいつもいつも、ネガティブな自分、闇の自分を拒絶していたから…。
完全無欠の完璧なんて目指さなくていいし、そもそも、そんなもの存在しないんだ。
私も含め、みんな”でこぼこ”している。好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なこと。だから補い合い、支え合い、時にはお互い鏡の役割になって学び合う。
でこぼこな自分でいることこそが、今この瞬間の自分史上完璧な自分なんだ。
それが腑に落ちた瞬間、肩の力がストーーンと抜けて、温泉に入ったみたいにふわ〜っと楽になった。別の何者かになるのではなく、ただ私で在り続ければ良かったんだ…。
私は自己愛が本当に苦手で随分遠回りしてきたけど、多分それさえも完璧なルートなんだと、今ならわかる。
自分を認めるって、言い換えれば『許し』だと思う。
『でこぼこでも良いんだ』って、『そんな自分で生きて良いんだ』って『自分自身を許す』ことは、誰かに認められたり褒められることよりも、ずっとずっと満ち足りた気持ちになれた。
誰かに愛を注ぐのは、自分への愛を注いだ後。家族がいても大事な人がいても、一番最初に愛を注ぐのは自分自身。この順番がミソ!
だって自分を愛せない人は、その穴埋めを外側で補おうとする。それは一見当たり前のように感じるけど、それはいつしか依存や期待、執着に変わっていくし、それじゃ結局心の穴を埋めることは出来ない。本当の意味で心の穴を埋められるのは『自己愛という自立』だけだ。
自己愛は誤解されがちだけど、実はものすごく大切で、全ての根源なんだと、私はこの体験で痛感した。
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ぺちゃっとした平たい顔、繊細すぎる感覚、感性。長年の私のコンプレックスたち。
今これらは私にとって、私たらしめるチャームポイントのような存在になっている。
そう、これが私なんだ。この私で完璧なんだ。
一周回って始まりの地点に戻ったような感覚だった。
コンプレックスって実は『一人一人に与えられている特別なギフト』なのではないのだろうか?
自分を許し・愛し続けていくことで、常識や囚われから自分を解放し、制限のない真の自分を思い出すためのー。
『気付き』は『ギフト』。コンプレックスは、私に大きな解放を与えてくれた。その時私は『ああ、これも有り難うなんだなぁ…』とぼそっと独りごちていた。
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